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... and stuff.

九井諒子の「距離感」に関して

http://nisiniha.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/nisiniha.blogspot.com/2012/10/blog-post.html

この漫画を読んで「これはイジメだ」と言うのは簡単だが,じゃあどれだけの人間が沢田番付の実験を断ることができるだろう? イジメは良くないと人事のように叫ぶ人のうち,どれだけの人間がこのような状況に遭遇した時に,つながりの深い同僚全員を相手に回してまでも,良く知らない沢田を助けることができるだろう? これは軽いお遊びではなくイジメなのだと冷静に判断できるだろう?

アイヒマン実験ミルグラム実験)という有名な実験がある.詳細は省略するが,この実験によると,権威者に指示されれば人は相手を殺すような行為でさえ実行してしまうというものだ.もちろん被験者の中には権威者に異議を唱えて実験を中止しようとする人間もいるが,多くの人は責任が権威者にあるとして実験を続行してしまう.

この漫画のシチュエーションは,ある意味でアイヒマン実験に非常によく似ている.ここではグループのリーダーである山田が権威者となり,沢田は被験者と称したサクラだ.権威者がまず指示を出し,被験者の行動によってサクラが反応する.権威者は周りに目配せをし,サクラは最後には電話をかけるのを諦めて帰るという強い反応を示す.被験者はドアを開けに行く事で簡単に実験を終了できる状態にある.このように考えれば,被験者の人数は変われど状況は全く同じになる.

もちろんこれは僕個人の勝手な感想および仮説だ.見当違い甚だしいと言われて当然だと思う.しかし,著者の主張がこの実験とは関係がないとしても,誰もがこのようなイジメに加担する要素を少なからず持っていると僕は思っている.だからこそ,この漫画の状況をイジメだとは思っても,登場人物の行動を頭ごなしに非難することは僕にはできない.この漫画から伝わってくる後味悪い感覚は,イジメに対する怒りより,こういう状況を誰しも一度は体験したことがあるからこその嫌悪感だと思う.自分が今まで味わってきたような,被害者になったときのやるせなさや,加害者側に回っても止められなかった時の意志の弱さが,この漫画を通して透けて見えるようだ.


(最後に:この記事は,イジメを肯定するものではなく,またイジメの加害者を擁護するようなものでもない)

部分的に飛ばし読みした本を幾つか.書評に纏められなかった漏れ作品.

非線形科学 (集英社新書 408G)

非線形科学 (集英社新書 408G)


説明は分かりやすいし良く纏まっているけど文庫にしては重すぎる.ざっと読んだけど自分の理解が及んでいない部分が多かったので,もうちょっと周辺知識つけてからもう一度読み返すつもり.

ベスト・オブ・映画欠席裁判 (文春文庫)

ベスト・オブ・映画欠席裁判 (文春文庫)


いままでに見たことのある映画は一通り眺めた.見てない映画は見てからのお楽しみ.

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))


取り敢えずざっと読んだ.文章の書き方が慣れなかったので細かく読むのはちょっと後回し.

不思議の町 根津―ひっそりした都市空間 (ちくま文庫)

不思議の町 根津―ひっそりした都市空間 (ちくま文庫)


根津に遊郭があったらしい.

泥団子を食べる想像を,頭の中が空っぽの時によく考える.泥団子といっても,ただの泥を固めたようなものではない.映画「千と千尋の神隠し」に登場する川の神様が千尋に与えた泥団子だ.その泥団子は,ハクの体に巣食う魔女の虫を吐き出させ,暴飲暴食の結果体が膨れ上がり醜い姿になったカオナシを元に戻した,ある種の薬のようなものである.カオナシが口から汚物をまき散らしながら千尋を追いかける様は,映画の中でも中盤の盛り上がりとしてかなり強烈な場面だ.泥団子を食べたハクもカオナシも,一様にのたうちまわって苦しみ,体の中から不要なものである毒を吐き出す.そう,その泥団子が食べてみたい,食べたらどうなるのかという想像を,時々ふと思い出しては繰り返す.自分も泥団子を食べて不要なモノを吐き出したい.吐き出したいのは,脳みその中に詰まっている無駄な情報だ.

脳の中の情報を整理したい.必要な情報をまとめあげ,不要な情報を消し去りたい.コンピュータのHDDをデフラグするがごとく,家の中に陣取っている要らないものを断捨離するがごとく,とにかく一旦無造作に積まれた瓦礫の山のような頭の中の記憶領域を解体してリセットしたい.今まで築いてきた知識を捨てる気は無いが,だからといって何もかも無差別に詰め込んできた知識が全て自らの血肉となってうまく吸収できている気がしない.消化不良のモノがいつまでたっても減らず,借金で首が回らないような状態に陥っている感覚を覚える.

もしそのような泥団子が現実にあれば,もし脳の整理なんてものが可能ならば,千と千尋の神隠しの泥団子を食べて,口から汚物を出すが如く無駄なモノを頭から消し去りたい.苦しみ抜いて毒を吐き出した後の爽快感を想像するだけで,もう,ね.

日経ビジネス Associe (アソシエ) 2012年 09月号 [雑誌]

日経ビジネス Associe (アソシエ) 2012年 09月号 [雑誌]


だいぶ前に読んだ雑誌だがメモしておかないと忘れそうなので少し書いてみる.机特集が気になって,久しぶりに日経Associeを購入した.久しぶりに読んでみると,この雑誌がどういう層をターゲットにしてるのか露骨に分かってしまい,雑誌を通して働き盛りな新入社員や社内で少し出世した若手などの苦労が垣間見えるようで,何となく辛い.

机特集は可もなく不可もなくという感じなのだが,紹介される事例はどれも社内の出来る先輩の机くらいの無難さばかりで,個人的にはあんまり面白くない.別にGoogleなどの奇抜なデザインのオフィスを見せろと言っているわけではないし,Appleなどのインテリアを全面に出せというわけでもないので,もっと変な机が見たかったところがある.ビジネスマン向けの仕事重視の雑誌なので,効率性や機能性,あとは自分の平凡なオフィスで実現できるかといったところが大きいのだろうけれども,これじゃあそこいらのライフハック程度のことしかできないだろうと思ってしまう.

毎回blogで書評を書くたびに,書評ってどうやって書けばいいんだろうと考えこんでしまう.むしろ文章の書き方が分からないと書いたほうが正確かもしれない.まるで見知らぬ住宅街の路地にでも迷い込んだ気分なのだ.クライミングをする時に,足をどこに引っ掛けて登りはじめたらいいのか分からないような感覚にも似ている.Macのディスプレイを目の前にして,真っ白なエディタ画面に何を打ち込めばいいのか皆目検討もつかないような状態が続く.しかし,ふとした拍子に何か短い文章を書き始めると,途端にキーボードを打つ手が止まらなくなる.書いた文章に続く文章を書く.表現が悪いと文章を書きなおす.また文章をつなげていく.ゴールが見えてきたら先に書きだしてしまって,あとはその間を埋める.書いた文章がある程度まとまっていればそれで先に進んでいけるし,駄目そうなら書いた原稿はそのままにもう一度先頭から書き直す.そうやって,氷の結晶が核の周りを包み込んで形作っていくかのように,ライフゲームにおいて小さなパターンが無限に近い拡がりを見せるように,元からそう仕組まれていたかのように筆は進んでいく.ある種の慣性が働いた状態は続き,終着にたどり着くかエネルギーが尽きるまで止まらない.そうやってひと通り書き終えて,ああ今回は何とか書けたと安堵して,何で最初はあんなに不安だったのに成り行きでまがいなりにも纏まった文章が書けたんだろうと疑問が残る.まあ,その疑問は大抵すぐ忘れて次の文章を書き始める時まで思い出さないのだが.

なんてことを思っていたら,最近読んだ本「小さく賭けろ!―世界を変えた人と組織の成功の秘密」で同様の問題について触れている逸話があった.作家のAnne Lamottは「優れた作家は必ずつまらない初稿を書く」と言い,自分がレストランのレビューで書き始めにさんざん苦労したこと,ようやくひねり出した文章が恐ろしく酷いことを素直に表現した上で,

「ともかく何でもいいから紙に書いてごらん.子供が書くように,頭に浮かんだことをそのまま書き留めてみる.優れた作家は皆そうしている.そうして二稿は少し良くなり三稿はもっとずっとよくなる」

と結論付けている.また,本書の著者であるPeter Simsはこの現象を「白紙ページ問題」と呼び,

「アイデアを最初に思いついた時には,可能性は無限に広がっているように思える.しかし目の前に大きく広がっていると思えた可能性は,自己懐疑と不安の牢獄へと変わるときがくる」

と表現している.

この話を読んでちょっと安心できた気がする.評価されている作家でさえも同じような苦悩を味わっているのだという共感と,この問題に対する明確な答えが得られたという心強さが相まって,もう少し今のスタイルで経験を積んでいこうという気分になった.

上限・下限の厳密さ

物事を考えるときに建設的な議論をするためには,疑問の真偽以外にも程度を考えるする必要がある.立てた仮説が正しいか間違っているかという答え以外にも,それがどのくらい多いのか少ないのか,どのくらい効果があるのかないのか,どのくらい可能性があるのかといったことを考えることによって,より具体的な疑問を積み重ねやすくなる.しかし,仮説によってはそれが厳密には答えられない場合がある.そういった場合に有効な概念が「上限・下限」だ.考えられる範囲を制限することによって,極端な例に傾くことを防ぐことができる.

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殆ど人の受け売り.制限を加えることで新しい答えを導くことができることもある.まあ上限下限含めて,こういった類は数学の世界だと定石なんだろうけど.
デザイン思考とかそこら辺の話でもよく出てくる話だと思って少し書き出してみた.